やがて君になる 13話(最終回) 感想 考察 ~灯台に導かれて/あなたは何者にもなれる~
(先輩 そろそろ 乗り換えですよ ------小糸侑)
こんにちわ。づかと申します。
ついに最終回となる、13話の放送が終わりました。アニメ『やがて君になる』。
放送直後、終わってしまった悲しみと、それ以上に、この作品に出会えた・見届けることができたという何とも言えない幸福感に包まれて胸がいっぱいになりました。
放送から数日経ち、寂しさが募りつつありますが、今回も考察・感想を述べてまいります。13話は多くの素晴らしい演出がありました。未だ思考の整理が追い付いていない状況でして、いつも以上に散らかった内容になっておりますが、ご容赦頂ければと思います。
※本記事はアニメ『やがて君になる』13話(最終回)までのネタバレを含みます。ご一読の際は、13話まで視聴の上でご覧ください。なお、筆者は原作既読勢ですが、本記事に原作のネタバレはありません。
『やがて君になる』13話(最終回)「終着駅まで/灯台」
【目次】
1.燈子の憂い/「終着駅」の意味
2.燈子にとっての「光」/「海」とは
3.サブタイトル考察「終着駅まで/灯台」
4.水族館・魚などの考察
5.沙弥香の描写
6.ブログ紹介
7.感想など
1.燈子の憂い/終着駅の意味
(列車通過の際、半歩踏み出す燈子。ひやっとする場面)
大項目の1.2.では、いずれも燈子に注目して考察していきます。
●雲・セミの描写
まずは冒頭の描写から。燈子は、お姉さんのお墓参りをしています。姉の墓石に向かって、「もうすぐ夏休みが終わって 劇の練習を重ねて お姉ちゃんの命日が過ぎて 文化祭の日がくる」「私ちゃんとやるからね」と呟きます。
そして、入道雲が映し出されます。
10話時点では、燈子の目の前にある入道雲はとても伸びやかでした。また、雲の頂点より上にも「余白」があり、伸び代がまだあることが分かります。
(10話/晴れた空に入道雲が伸びている)
10話段階での考察で、筆者は工事現場を侑に例え、またそれが柵によって蓋をされている見方を示しました。13話では、それと同じように、燈子の入道雲も墓石によって閉じ込められている印象を受けます。
また、13話では他にも、
等のように入道雲の描写がありますが、いずれも画面一杯まで雲がかかっていたり、傾いたり、見切れていたりと、10話の雲と比較すると「成長が止まっている」「歪みはじめている」ような描写になっています。合宿での市ヶ谷さんの発言や、劇が終わった後のことを考えて、燈子の心境に大きく影を落としていることが伺えます。
続いてセミの描写について。
2枚のセミの羽が流れています。羽は右翼・左翼1枚ずつなので、同じセミの羽と見ることができます。1枚の羽は動かず、1枚の羽は回転しています。季節の終わりを示していることが直接的な表現としてありますが、それ以外に色々な解釈が出来る場面だと思います。
①同一のセミ=同一人物と捉える
→セミの羽はいずれも燈子のものであり、変わろうとしない羽・変化しようともがいている羽を示すもの
②セミを同一人物と捉えない
→燈子と澪と見る。動かない羽は亡くなった、もう何者にもなれない澪を示し、動いている羽は澪の年齢を追い抜かし、色々な可能性を秘めている燈子を示している。
③セミを同一人物と捉えない
→沙弥香と侑と見る。動かない羽は現状維持を貫く沙弥香、動く羽は変化を促す侑を示している(この部分は後述します)。
筆者は第1感では②案を思い浮かべました。
●「終着駅」の意味
喫茶店Echoで沙弥香と話をした後でも、燈子の憂いを帯びた表情をしています。
駅で電車を待ちながらよぎる思いは「だけど劇が終わったら?そうしたら私はどこに行ける...?」でした。劇の終わった後、その先のゴール(=終着駅)までが全くイメージできない状況にあります。
なお、終着駅の意味は下記のとおりです。
終着駅 - Wikipedia
(以下引用)
線路名称で、ある路線の終点となっている駅を終着駅という。たとえば東京駅から神戸駅に至る東海道本線の終着駅は神戸駅である。なお、線路名称上始点でも終点から見れば終着駅になりうる。つまり、東海道本線の終着駅は東京駅でもよい。 (引用終わり)
ここで抑えたいポイントが、引用文にもある通り「終着駅」が「始発駅」にもなりえる
ということです。この点は3項でもう少し詳しく述べます。
2.燈子にとっての「光」/「海」
筆者は、特に第12話において、侑にとっての「光」/「宇宙」/「海」について言及してきました。
では、燈子にとってそれらはどういったものなのか?それが第13話では明らかになったので、述べていきます。
●「光」について
これは、侑と同じく「夢」「願い」と捉えています。燈子の願いは「生徒会劇を成功させる=姉になる」です。しかしこの願いは、第11話より大きくグラついてしまいました。
13話冒頭、燈子は光に対して眩しそうな様子を見せています。これは、自分の願いに対して反射してきた光が、自分の思っていたものと異なってきたことが原因です。
●「海」について
七海燈子にとって「海」とは「小糸侑」です。即興劇が終わった後、侑はペンギン散歩のイベントを見るために走り出します。それを見る燈子の視界には、海の中を歩く侑の姿が映し出されます。
(海の中を歩く侑)
これまで、1話・9話などで、侑が海の中に潜る場面は多々ありました。しかしここでは、「あくまで燈子の視点で描かれた侑」となっています。なぜ燈子にとって侑は海なのか?根拠は次の要素です。
◆燈子は侑に澪を重ねている
→12話で燈子は侑に、澪にしてもらっていたように膝枕を要求しました。6話では、「君の前でただの私に戻るのは居心地がいいけれど」とも言っていました。8話でも雨宿りの場面で甘え上手な一面を見せています。燈子は、姉にできなかった、できなくなってしまった「甘え」を侑に求めている場面があります。
そして、「七海澪」という名前。11話の記事で考察しましたが、この名前は非常に水成分が多い漢字で構成されています。「七海」という苗字に「海」が入っており、家系のルーツ的に、澪という名前にも水の要素があり、燈子にとって海は帰るべき場所・居心地の良い場所なのだと考えます。
◆侑自身、水族館が好き
→SNSのアイコン・携帯のストラップ・Tシャツの柄など、侑のプロフィール的にも「海の生き物が好き」ということは明らかです。そのため、シンプルに侑=海のイメージを持つことができます。
◆「・・矛盾しててもいいんじゃないんですかべつに」
→「好きと言える自分に安心する」という燈子に対し、侑が放った器の大きな一言です。姉になろうとしながら自分を捨てられない燈子を、否定も肯定もしないこの言葉は、燈子が最も好む類のものであり、侑の海のような懐の大きさが伺えます。
これらの要素から、燈子は侑に海を見出します。しかし、先を行く侑に手を伸ばしますが、その手は途中で下げてしまいます。
「手を伸ばしたけれども届かない場面②」になります。場面①は沙弥香が行っており、こちらは本記事の最後に述べます。
ここで燈子の頭によぎったことは、11話でも言っていた「その優しさを使い尽くしてしまうのが怖い」でしょうか。特別を持ってしまうと、それを失うことに怯えるのは誰もがそうであり、燈子は既にそれを経験しています。だから、手を引っ込めてしまった。
そしてそんな悩みはお構いなしとばかりに笑顔を浮かべて「七海先輩!」と声をかける侑。13話は、全編が尊いシーンになっていますが、ここの侑の笑顔は燈子のすべてを受け入れてくれるような本当に素敵な表情をしています。
(七海先輩!)
これらを踏まえて、次項にてサブタイトルの意味の解釈及び13話の核心部分に触れていきたいと思います。
3.サブタイトル考察「終着駅まで/灯台」
水族館デートも、もう間もなく終わりという頃、燈子は侑を見失います。そしてすぐに侑が燈子の手を引き、2人は出口へと向かいます。ここからの一連のシーンは、1話から始まったアニメ『やがて君になる』という作品のクライマックスとなる、感動的なシーンが続きました。きっと、作品を観ていた誰もが「このまま 終わらなければいいのに」と2人の気持ちと共にあったことと思います。
●終着駅=始発駅
1項で述べた終着駅に関する補足です。上記の引用文にある通り、終着駅がゴールではなく、そこが始発駅となるという事例ですね。たとえば、折り返し運転になったり、そこから別の路線の行先になったりと。
13話クライマックスシーンにおいても同様の場面がありました。
◆瞳の中の侑
ここは1話の、1番最初の場面と同じ演出です。1話は侑の瞳に2人の手があり、宇宙が映し出されていました。
◆燈子の手を引く侑
この構図は、1話ラストで燈子が侑を抱き寄せた場面と同じです。あの日から、侑と燈子の物語は動き始めました。以来、燈子は侑のことを振り回し、影響を与え続けます。
13話では、侑は「こっち」と燈子を案内します。これまでの2人と逆転した構図になっています。13話という物語の終着点において、1話と同じ演出を用いる。終わりは、何か新しいことの始発点にもなりえるという構造は、とても希望のある演出だと思います。
●灯台に導かれて
侑が案内した直後、燈子は、冒頭と同じように光に眩しさを覚えます。
ここでも燈子は、眩しい光に対して、自分の願いを見失っている・どうしたらよいか分からない、という様子です。でも、ここで、
マンタが光を覆うように遮ります。
少し前に、2人は買い物をしていました。そこで侑が引き当てたストラップはマンタです。侑は「そうですか?」と言いましたが、燈子はマンタを当てた侑に「侑らしい」と言っています。そのため、侑=マンタと解釈できます。マンタは優しく、光から燈子を守り、包み込むように泳いでいます。悠然と空を飛ぶように泳ぐマンタに、燈子は目を奪われます。
マンタと侑は、燈子を導くように連れて行きます。真上にあった光ではなく、別の光に向かって歩いているようにも見えます。まるで自分の光(願い)に、進む先が分からなくなっていた燈子に対する、灯台のように。そして2人は、光に向かって手を伸ばします。「侑と一緒なら大丈夫」と言うように、燈子の眩しさを感じる描写はなく、真っ直ぐに手を伸ばしています。
マンタが飛ぶように泳いでいる姿が印象的で、空と海の境界が混ざり合うかのような、本当に幻想的なクライマックスの場面でした。
●乗り換えと即興劇。あなたは何者にもなれる。
水族館をあとにして、侑と燈子は帰りの電車に乗りました。電車内でうとうとする燈子。侑は「このままでも悪くない」と思いながらも、乗り換えのために燈子を起こします。
・燈子の思い込み
燈子は、劇の結末も、姉になるということも、ずっと答えが1つしかないものと思い込んでいます。
燈子が電車を待っていた場面。このあと侑から「遊びに行きませんか?」と誘われる。「終点まで先着する」ということは、この電車に待ち合わせ・乗り換えがない=選択肢は1本しかないことの暗示。
燈子の背に、線路のように1本の窓枠が伸びている。これも選択肢が1つしかないという燈子の暗示。
即興劇での燈子「そうなったら誰を選べば・・。」「私は誰かを選ばなければならない。だって私には記憶がないのだから。私には何もないのだから。」
そんな燈子の思い込みに対し、侑は即興劇の中でこう返します。
「選ぶ必要が、あるんでしょうか?」と。また、その後に心の中で力強く「でも・・!」とも呟いています。この後に続く言葉は、「変えてやる、変えてみせる。」でしょうか。侑が12話で、「劇の結末を変える」・「燈子を変えたい」と決意したからこその「でも」という言葉です。
・乗り換えの提示
電車内で、「乗り換えですよ」と告げる侑。「このままでも悪くない」と思いながらも燈子を起こしているので、この電車に乗ったままでも燈子は目的地に着いていたかもしれません。でも、侑は愛しい時間を断ち切って燈子を起こします。「あなたは変われる」と信じるように。乗り換え先の提示は「道は1つだけではない。答えは1つではない」ことを表していたと言えます。
この時の侑の手が、一度引っ込めて、もう一度自分の拳をギュッと握り、再度燈子へ手を伸ばす所作、そして優しく声をかける侑の表情。アニメの映像も、本当に最後の最後の1シーンです。ここはもう、言葉にならなくて、2人がただただ美して、素敵でした。
燈子は何者にもなれる、という可能性を感じさせる、希望に溢れたラストシーンでした。物語の節目として、これ以上ない区切りだったと改めて思います。
4.水族館・お魚などの考察
閑話休題の内容です。
モデルとなった水族館は【マクセルアクアパーク品川】です。
www.ariescom.jp
マンタは、日本ではこの水族館以外に、沖縄県にある【美ら海水族館】でしか展示されていないそうです。※マンタはよくエイとも言われますが、ここでいうマンタとは「ナンヨウマンタ」の種類のことです。リンク先のHPにもありますが「ナンヨウマンタ」を飼育しているのは、日本で【マクセルアクアパーク品川】と【美ら海水族館】の2つのみです。美ら海水族館の大水槽ではジンベエザメがいますが、今回の水槽にはいなかったため、侑と燈子が飲み物を飲んでいる場面はオリジナルの舞台の可能性が高いです。
◆リュウキュウスズメダイ
www.aquahermit.com
リュウキュウスズメダイは、黒い線が3本あるミスジリュウキュウスズメダイと、黒い線が4本あるヨスジリュウキュウスズメダイがいるそうです。7本あるものは現実にはいない可能性がありますが、「七海」の「七」から採用したのかもしれません。リュウキュウとあるように、こちらも沖縄を連想させますね。
こちらは何となく画像検索で見つけただけなので、違う魚を紹介していたらご指摘いただければと思います。
◆カサゴ
オニカサゴの特徴 | 釣魚図鑑(特徴・仕掛け・さばき方) | Honda釣り倶楽部 | Honda
種別としては「オニカサゴ」に該当するのでしょうか。その場合、オニカサゴは強い毒を持っています。一方で上手に捌ければ非常に美味な高級魚らしいです。攻略難易度が大変難しい燈子とも似ているのかもしれません・・。
5.沙弥香の描写
最後に、沙弥香に関する描写について、いくつか解釈を行い本考察を終えたいと思います。
●コップの持ち方による燈子との対比
(沙弥香のコップの持ち方)
(燈子のコップの持ち方)
沙弥香の飲み物の持ち方は一貫して、両手で覆うようなスタイルです。筆者は7話での考察時において、それを「自身の心・気持ちを守るため」と解釈しました。今回もそれは変わりません。一方で燈子の持ち方は非常に対照的です。必要最低限の指しか添えず、開放的とも言えないなんとも危なっかしい持ち方です。飲み物を自身の心と見た場合、「自分の心はどうでもよい」と言えそうな持ち方を燈子はしています。
この後都さんから注文していた飲み物が提供されますが、沙弥香は水とコーヒーをすぐに入れ替えていましたが、燈子は水を抱えたままです。どうでもいいはずの心なのに、それをすぐに手放すことができない。水族館での侑と会話した場面の「矛盾した燈子の心」がこの動きでも伺えます。
●沙弥香とコーヒー
これも7話で詳しく考察した内容ですが、沙弥香がコーヒーを飲む描写は、自身の気持ちを受け入れる時に限定されます。自分の心と言葉が一致していないとダメなんですね。今回、沙弥香はアイスコーヒーを注文しましたが、それを飲み込み描写はありませんでした。また、13話EDにおいても沙弥香のそばには飲み物がありましたが、飲んでいる描写はありませんでした。ちなみに、7話同様、箱崎先生はしっかりとコーヒーを飲んでいる描写がありました。
●燈子に対する手のふれ方(侑との対比)
(「燈子にとってお姉さんがどんな人だったか教えて」と寄り添う沙弥香)
沙弥香は、燈子に触れる際に、一度肩に触れようとしますが、その手を一度下げ、改めて燈子の手に寄り添うように手を伸ばします。この局面においては、肩に触れるより手と手で触れ合う方がより、力になりたいという意思表示を沙弥香はしたかったのだと捉えています。
手を改めて伸ばす描写は、侑の電車内での動きとリンクしています。また、侑は肩に触れて、沙弥香が肩に触れなかったことは対比されています。
(燈子の肩に手を伸ばす侑)
侑は片手でなく両手で、燈子の態勢を変えるように肩を抱いています。「正面からあなたと向き合う」ということを示しています。12話で決意した侑の強さが感じられるシーンです。
一方で沙弥香は、「あなたの気持ちに寄り添う」という選択をしています。あの場面、あの位置では、燈子の肩を抱き寄せるという動きはできません。両者の位置が横並びだったあの位置関係においては、燈子の意志を尊重し、手を握り締めるという沙弥香の行動は「最適解」だったと言えます。ただ、最適であってもそれが燈子の心に何かをもたらしていないということが歯がゆいです。
●手を伸ばす沙弥香(燈子/侑との対比)
喫茶店での別れ際、沙弥香は燈子に向かって手を伸ばしていることが、その瞳に映ったことで明らかになります。しかし、沙弥香はその手を伸ばすことを諦めます。本記事中盤で述べた、手を伸ばしたけど届かない場面①になります。「自分の燈子に対する選択はこれでよかったのか」と自問するような、別れ際の沙弥香の表情がとても美しく、また儚いものになっています。
(燈子を見送る沙弥香)
この、手を伸ばしたけどそれを引っ込めるという仕草は、燈子も侑に対して行っています。侑にその描写はありません。なぜなら、侑は燈子に対して、手を伸ばし迷わず掴んでいるからです。
沙弥香・燈子の躊躇と対比させることで、12話でプラネタリウム(星)を掴み、確固たる願いを見つけた侑の意志の強さ・行動力の差が明らかになっています。
個人的な見解ですが、侑と燈子だけでなく、「佐伯沙弥香」という女性がいてくれたことで、筆者はこの物語により夢中になれました。筆者の考察は7話より始まっているのですが、あの時の、沙弥香を本当に大切していた描写が、自身の考察における出発駅となるものでした。沙弥香のおかげで、より一層物語に彩りが生まれ、また切なさも増しているように感じます。それは最終回においても際立っていました。
以上で、本記事全体の考察も終えさせていただきます。
6.ブログ紹介
www.anime-kousatsu.com
いつもご紹介させて頂いているゆっちーさんの記事です。
記事の冒頭の喫茶店の攻防は確かにと思いました(笑)
灯台の光を侑に見立てていることは同じですが、燈子を案内する侑の前方に暗闇があるとの解釈もされており、微細な部分での見方が異なり面白いです。視線の意味や沙弥香の燈子への接し方も大変興味深い内容ですので、ぜひご覧ください。
yagakimi.hatenablog.jp
続いてygkmさんの記事をご紹介させていただきます。まず、燈子への光の当たり方(3つの視点)・仕切りに関する部分から始まる、燈子を暗闇から連れ出す侑の解釈は素晴らしいです。また、終着駅についても、自分が踏み込めなかったところまで言及されているので、こちらも是非ご覧ください。
それにしても、ゆっちーさん・ygkmさんは毎回(3回か4回くらい?)アイキャッチ画像が被っていて仲良いなあ(都さん風)と思っています。
ブログ紹介は以上です。
7.感想など
やがて君になる13話の放送をもちまして、7話より続けておりました考察記事も終わりとなります。冒頭でも述べましたが、本当に素晴らしいアニメでした。ここまでのめり込んだ作品は自分にとって経験がありません。
まず、何といっても原作の物語が圧倒的な魅力を放っています。作品が持つ表現力・構成力・密度の高さ・論理的な物語の進み方は、今まで見たことがありません。
そしてそんな素晴らしい原作を、忠実かつアニメならではの描写をこれでもかとつぎ込んで映像化してくださったアニメスタッフの方々に心から感謝します。視聴している方が沢山言葉にされているように「原作への深い敬意・愛」を感じる描き方をでした。
作品のテーマの1つである、「好き」という気持ちについても、考えさせられました。
「好きになるってどういうこと?」と問われると言語化できない、本当に難しい言葉ですが、「やが君のキャラクターはみんな好き」ということは自信を持って言えます。
侑・燈子・沙弥香はもちろんのこと、槙くん・堂島くん・こよみ・朱里たち、大人メンバーの誰もが好きです。共通して、みんな「いい子」であり「いい人」だからだと思います。
筆者は原作を読んでいるため、アニメ13話より先の話を知っています。映像化して観たい場面が、いくつもあります。彼女たちの物語の結末を、もう一度アニメで見られることを心の底から願っています。BDは全巻予約しているので、他には、布教をしたり、とにかく「やが君」を話題にし続けることができることかなと思います。
最後に、拙い考察で恐縮ではありますが、これまで記事を読んでくださった方に感謝します。この3か月間、本当に楽しかったです。ネットを通じて、皆さんの考察を読んだり、毎週アニメ放送前・放送時・放送後に盛り上がりを共有したりと。それがなくなってしまうのが寂しくてたまりません。。。
でも、原作は続いていくので、それを支えに2019年を生きていこうと思います(笑)
ではでは!!